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東京高等裁判所 昭和50年(う)1271号 判決

被告人 中野喜壽

主文

本件控訴を棄却する。

理由

本件控訴の趣意は、浦和地方検察庁越谷支部検察官事務取扱検察官検事岩田農夫男作成名義の控訴趣意書に記載されているとおりであり、これに対する答弁は、弁護人遠藤順子作成名義の答弁書(二通)に記載されているとおりであるから、これらを引用する。

所論は、要するに、被告人には、右折を開始した後、反対車線内に入ろうとする際の視野の拡がつた状態において、改めて対向車線上を注視し、対向直進車両の有無及びその安全を確認すべき業務上の注意義務があるのに、これを怠つて進行した過失があり、右過失により本件事故を惹起したことが明らかであるのに、右過失を否定し、本件事故を被害者の一方的過失によるものと認定した原判決には、証拠の評価と道路交通法第三六条第四項、第三七条の解釈を誤り、ひいては事実を誤認した違法があり、その誤認は判決に影響を及ぼすことが明らかである、というのである。

そこで、所論にかんがみ、まず右折車両の注意義務について案ずるに、道路交通法第三七条は、「車両等は、交差点で右折する場合において、当該交差点において直進し……ようとする車両等があるときは、当該車両等の進行妨害をしてはならない」旨定めているから、右折車としては対向直進車両の有無・動静を十分確かめ対向直進車両の進行を妨害することにならないことを確認したうえ、右折しなければならない注意義務を負つているものであり、一方、同法第三六条第四項は、「車両等は、交差点に入ろうと……するときは、当該交差点の状況に応じ、……反対方向から進行してきて右折する車両等……に特に注意し、かつ、できる限り安全な速度と方法で進行しなければならない」旨定めているから、直進車においても右折車両等に対する安全運転義務を負つているので、右両規定の関係が問題となるわけであるが、右第三七条の規定する右折車の注意義務は、所論のとおり、第三六条第四項の規定する安全運転義務に優先するものであり、直進車両は右折車両に優先するものと解するのが相当である。けだし、昭和四六年六月二日法律第九八号による改正前の道路交通法(以下「旧道路交通法」という)第三七条第二項が、「車両等は、交差点で直進し、又は左折しようとするときは、当該交差点において既に右折している車両等の進行を妨げてはならない」旨規定して、旧道路交通法第三七条第一項の右折車両等の直進車両等に対する注意義務と直進車両等の右折車両等に対する注意義務とを同一の表現方法を用いて並列的に規定し、第一項の直進車優先の原則に対し右折車の優先する場合を設けていたのに、これが削除されるに至つていること、道路交通法第三六条第四項は、交差点におけるすべての車両等の一般的注意義務を規定したもので、右折車にも適用されるものであり、本来同法第七〇条の安全運転義務の内容をなすものであつて、同法所定の運転者の注意義務に関する各規定を補充する規定であると解されるから、右折車の注意義務に関する個別的、基本的規定である同法第三七条と同列に対比されるべき規定ではないと解するのを相当とすること、及び右折車は、右折方法との関係上、通常右折の合図をするとともに、徐行ないし一時停止しているのに対し、直進車は、普通の速度で走行してくるのが通常の状態であり、このような現実の状態や両車の速度の対比からみて、右折車の方が危険回避の措置を容易にとりうる実情を考えても、道路交通法第三七条が右折車両に譲歩を求めて直進車両等の優先を認めていると解するのがきわめて合理的な解釈というべきであるからである。このように解すると、原判決が、右折車としては、対向直進車両が、前方注視を怠らず、右折車の存在とその動静を覚知することにつとめ、できる限り安全な速度と方法で進行するという正常な運転をしてくれることを期待して、それに応じた安全を確認すれば足りると判示しているのは、所論のとおり誤りというべきであり、本件現場が当時かなりの渋滞状態にあつたこと、被告人は、約一〇秒間右折ができる機会を待つていたこと、原判示のような被告人車の発進地点、車道幅員、被告人車の停止位置と右折道路との距離関係等の原判決の指摘する諸事情も被告人の安全確認義務を軽減し、或はこれを否定する根拠とはならないというべきである。

そして、記録によれば、被告人は、本件道路は、本件交差点から被告人車の進行方向に向かつて僅かに左方へゆるく湾曲していて、当時被告人車の前方には約一〇〇メートルにわたつて被告人車と同方向に進行する車両の連続渋滞があり、被告人車及び被害車両のいずれの方向からも互いに対向車線に対する見とおしが悪い状態にあり、一時停止していた被告人車の前車が発進し、被告人車との距離が約一〇メートルとなつた時点においても、被告人車の運転席から対向車線の見とおし得る距離は、路端で約五七メートル、被害車両の進行したと認められる、路端から道路中心に一メートル寄つた地点で約四三メートルに過ぎないことが認められ、一方本件事故発生時刻が午後四時五〇分という交通量の多い時間帯であり、当時本件道路には指定速度の制限がないので、相当高速度で直進してくる対向車のあることが予想されるうえ、被告人車が右折すべく発進して対向車線に接近するにしたがい視野がひらけ視認可能の範囲が拡大することが窺われるので、原判示のように被告人は、被告人車が停止中の直前車の最後尾から数メートル後方で、道路中心より約〇・五六メートル左方に寄つた地点に、本件交差点入口から約四・四メートル手前を最前部として停止した後、前車が発進して本件交差点を過ぎ、前車との距離が約一〇メートルになつた時点において、視認のきく前方約四〇メートルの範囲の対向車線上に対向直進車両のないことを確めただけで、その後全く対向車線上に注意を払わなかつたのであるから、これが注意義務の懈怠であることは明らかであつて、被告人は、原判示の発進地点より原判示の方法で発進後約一・三秒を費やして約二・六二メートル進行し、少なくとも被告人車の前部右角の部分が道路の中心線に到達し対向車線に入ろうとする時点において改めて対向直進車両の有無及びその安全を確認すべき注意義務があるものというべきである。

そこで、進んで、被告人車の前部右角の部分が道路中心に到達した時点における同車の視認可能の範囲について検討するに、右時点における中山車の位置は、被告人車の前方約五四メートル(ただし、算式は、(60000m÷3600)×(4.3-1.3)=49.99…m約50m 50m+3.6m=53.6m)ないし約五五メートル(60000m÷3600×(4.4-1.3)+3.6m=55.28m)で、対向車線の路端から約一メートル道路の中央に寄つた地点にあり、従つて右時点における被告人車の運転席と中山車の距離は、被告人車の前車軸から最前部までの長さが〇・八六メートルであるから、約五四・九メートルないし五六メートルとなるところ、右時点における被告人車の運転席からの対向車線上の見とおし距離は、当時の交通状況を再現させるため、被告人車と同型の自動車を本件交差点手前の原判示の地点より右折発進させ同車両の前部右角が道路中央線に達したところで停車させ、その運転席から一〇メートル前方にパトロールカーをおき、さらにその前方に約一〇〇メートルにわたつて、後続の通行車両を順次停車させて行なわれた当裁判所の検証の結果によれば、原判決も指摘するとおり被告人車の先行車両の種類・構造・進行位置等によつて多少の差はあるものの、被告人車の運転席から通常の運転姿勢で見た場合、その前方五五メートル、対向車線の路端から一メートル道路の中央に寄つた地点に進行してきた中山車の運転者の左手、左足の先端部分及び同車の左ハンドルの一部を、また、被告人車の運転席から身体を右側の車窓に寄せた運転姿勢で見た場合、中山車の前輪タイヤ及びその運転者の左半身をそれぞれ認め得るに過ぎず、右中山車をさらに五メートル前進させ被告人車の運転席から五〇メートル前方に近接させた時点においては、中山車の前部及び運転者の全身を見ることが可能であることが認められるけれども、所論のように五九・八メートルないし六三・五メートル前方にある中山車を見ることはこれを見ることができず、他にそのよう視認が可能であるという証拠も存しない。

してみると、本件において被告人が、所論のとおり被告人車の前部右角の部分が道路の中心線に到達し対向車線に入ろうとする時点において改めて対向車線上を注視し、対向直進車両の有無及びその安全を確認したとしても、中山車を発見することができない場合もありうることになるから、本件事故と被告人の前記対向直進車両の有無及びその安全の確認についての注意義務の懈怠との間に因果関係があることが必ずしも明であるということができないのであつて、本件は結局犯罪の証明がないことに帰着し、被告人に対し無罪の言渡をした原判決は、結論において相当であり、論旨は理由がない。

よつて、刑訴法三九六条により本件控訴を棄却することとして、主文のとおり判決する。

(裁判官 瀬下貞吉 金子仙太郎 小林真夫)

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